新タイプの誌友会用

写経について

地方講師受験のための資料作成委員会
委員 岩崎芳久
〝写     経〟
テキスト『小閑雑感Part7』Kiki
  ※ポイント
    (1)日本の「写経」の歴史
      古来、お経を書き写す「写経」は最も簡単な仏道修行であった
   平安時代ごろから、修行のためや、病気平癒、先祖供養などの祈りや願いを目的にした個人的写
  経が始められたようです。
    (2)聖経「甘露の法雨」
  (3)写経はどうして功徳があるか
   谷口雅春先生著 『光の泉』昭和47年10月号より
  “人間は神の子であり、自分の内に無限の力があるのである”という意味のことが説かれてある経
  文を書写すのですから、それを書写しているうちに心が落着いてくる。
   人間は心が落着けば、自己の内に宿っている“神の力”が出てくるということになるわけです。
  (4)写経のこころ
      谷口輝子先生著『人生の光と影』頁263より
   写経する時は、先ず室内を整頓し、香をたいて端正に坐り、心を鎮めて一字一字を丁寧に書写し
  て行くのである。弘法大師の教えによると、一字一字がそのままに三摩耶まんだらであって、仏様の
  お姿と変りがないのである。すなわち、仏を一体、一体と刻んでゆく気持で写経するこ
  とが大切である。
    (5)写経の心得

    ※解 説
    (1)日本の「写経」の歴史
   わが国での写経の歴史は、日本書紀に、「書生を集めて、始めて一切経を川原寺に写す。」とあり、
  その後、聖武天皇のころ、写経司 を任命し、これら専門のものが書写して収蔵し、また、諸国の国分
   寺等に配布されました。
   それがおそらく平安時代ごろから、修行のためや、病気平癒、先祖供養などの祈りや願いを目的
  にした個人的写経が始められたようです。
   このように写経には長い歴史があり、多くの人の信仰生活に心のやすらぎを与える糧となってき
  ました。それは身と心を調えて行なう写経のこころが、そのまま仏さまの教えの心に通うからにほ
  かならないのです。そしてこの写経の心は、時代を越えて、道を求むる人にとって大きな心の支え
  となりました。
   現代に生きる私達は、写経によって静かに落ち着いた時間を大切にするとともに、祈りや願いを
  生活の中に活かしていく一つの証としたいものです。

    (2)聖経「甘露の法雨」
   聖経「甘露の法雨」は小さくは個人の病いを癒し、大きくは国家の大病・世界の大病をも癒すこ
  とができるのである。

  (3)写経はどうして功徳があるか
   (谷口雅春先生著『光の泉』昭和47年10月号「写経はどうして功徳があるか」より)
   写経というものは、生長の家の『甘露の法雨』というお経があるのですが、静かに心を整えて毛筆
  で写すのであります。そのお経には何が書いてあるかというと、簡略して言うならば、“人間は本来、
  神の子であり、無限の力が宿っているのである。肉体は単なる仮相であって、その肉体の奥に、物質
  の奧に、霊妙きわまりなき神の生命なるものが宿っておって、それは無限力である”ということが書
  かれてあるわけです。(中略)“人間は神の子であり、自分の内に無限の力があるのである”という
  意味のことが説かれてある経文を書写すのですから、それを書写しているうちに心が落着いてくる。
  人間は心が落着けば、自己の内に宿っている“神の力”が出てくるということになるわけです。
  (中略)じーっと心が落着いて、吾々の心の潜在意識の深い深い層――深層へ入って往くと、そ
  こは大生命の潜在意識――即ち、宇宙大生命の智慧――に通じているわけですから、そこから不思議
  な智慧が湧き出てくるのです。いろんな発明が生み出されて来るのも、或いは深い哲学的な論理が発
  見されるのも、或は湯川秀樹教授が中間子理論を思いついたというのもその心の深層に通ずる神の智
  慧が動き出して来たのですね。湯川博士はなんでも夕食後、縁側に出て椅子にノンビリとして、心が
  本当に落着いておられた時にフッと思い浮かんだのが中間子理論だということを聞きましたが、誰で
  も、そういうように、心が深く落着いて来た時に、吾々の潜在意識の深い層は神様の智慧と通じてい
  るから、その無限の智慧が顕て来るということになるのであります。
   これは、やはり“祈る”という事が必要であります。“祈る”ということは、祈ったら神様が
 “彼奴は祈っているから助けてやれ”“彼奴は祈らんから助けてやるな”というような、そうい
  う依怙贔屓な神の配慮を要求することではない。神は吾々の潜在意識の奥底に宿っておられて、われ
  われ自身の心が祈りによって本当に落着いて静かになり、その心の波長が神様の啓示に触れることが
  できる境地に這入って行くために祈るのであります。
   また、“写経”といって、お経を写すのでも、やっぱり同じことであります。一字一字、感謝の念
  に心を集中しながら余念なく真理の言葉を写しながら、その深いところに這入って往くと、“人間・
  神の子、本来無限力”という文字と自分のいのちとが一体になり、人間無限力の意味が潜在意識の底
  の底まで自覚されるから、すべてがよくなるということになるわけであります。現象の御利益の前に
  は“心”の自覚という根本問題が大切なのであります。

  (4)写経のこころ
     (谷口輝子先生著『人生の光と影』頁263より)
   インドの文字で書かれた経典が中国へ渡って漢文に翻訳せられ、現在のような印刷技術がない時代
  だったので、すべて人の手で写経されたのであったが、仏教が中国から日本へ渡来すると、日本でも
  写経が盛んになり、やがてこの印刷の代りにしていた写経の方法が「祈りのかたち」として写経祈願
  とされたのは、平安朝のはじめ弘法大師によるそうである。
   弘仁九年の春、天下に悪病が大流行した。千百五十年も昔のことだから、防疫の方法もなく見る見
  る日本中に広がり、死屍累々という悲惨な状態であったので、時の帝、嵯峨天皇は弘法大師を召して、
  悪病退散の方法を御下問になった。大師は、「陛下御みずから般若心経を御浄写なされ、私は陛下の
  驥尾(きび)に伏して御祈念申し上げます」と奉答したのであった。嵯峨天皇は一字三礼のまことを
  つくして御写経なされたところ、「未だ結願の言葉を吐かざるに蘇生の輩途にたたずむ、夜変じて     日光赫々たり」と、その霊験の素晴らしさを般若心経秘鍵の奥書きに書かれている。
   この嵯峨天皇御宸筆の般若心経は、現在も大覚寺に祀られている。心をこめて一字ずつ三礼しなが
  ら御書きになったというこの写経が、恐らく日本における「写経祈願」の最初であり、その代表的な
  ものと言うことが出来る。写経する時は、先ず室内を整頓し、香をたいて端正に坐り、心を鎮めて一
  字一字を丁寧に書写して行くのである。弘法大師の教えによると、一字一字がそのままに三摩耶まんだ
  らであって、仏様のお姿と変りがないのである。すなわち、仏を一体、一体と刻んでゆく気持で写経す
  ることが大切である。静かに、浄らかな気持で仏様を創りあげて供養してゆくのだから、明るく、おだ
  やか、無心の心になることが出来るのである。

  宇治別格本山に於ける写経末一稲荷神社社殿地鎮祭祝詞より)
   稲荷大神の導きの霊光を拝してより此の地を浄地と祝ひ斎めて大御社を建立し生長の家の大神を招き
    奉り宝蔵神社と称え奉る 生長の家信徒たちの祖先親族縁族の守護と御導きとを請ひ願ひ奉り四時聖
    経『甘露の法雨』を誦する声境内に満つ 供養の為の読経にして報ひを求めざる浄き諸人
  の純真天に通じ 天啓ありて 龍宮海に通ずる“無”の門関として入龍宮幽斎殿建立せらるこの御殿
  に坐して願へば万づの願い叶はざるなく 龍宮の万宝 天上の億宝 悉く祈願の合掌の中にあり静か
    に掌を机上にしては報恩供養の写経をなす

    (5)写経の心得
   1,写経は、その時の心が最も大切ですから、心を浄め、室内を整えてから始めて下さい。
   2,奉納されます写経は毛筆にて謹書して下さい。
   3,文字の上手、下手は問題ではありません。一字一字に感謝の心をこめて謹書して下さい。

    (6)その他-体験例-
    大聖師御講義『続々甘露の法雨』頁435より
        写経の功徳で胃・肝臓・膵臓ガン消える
        北九州市若松区 林すみれさんの体験

テキスト『小閑雑感Part7』頁237より
 【教典への愛】
   雅宣先生が東京大学の駒場博物館へ「トーラの成立からユダヤ教へ」という展示会へ行かれての話
  ユダヤ教の成立の軌跡をたどる展示会であった

   この文章には「トーラの写本」(日本的にいうと写経)の芸術的美しさと、ユダヤ教に関する記述につ    いて書かれている。
      ユダヤ民族の人々の、教典への愛と傾倒(思い)の深さがその写本から感ずることができる。
中でも印象に残ったトーラの写本を見ての印象を述べられている。
   「トーラ」とは、モーセ五書とよばれている。ヘブライ語で「教え」という意味
    モーセの5書とは・・・ 
   『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』である  
    ユダヤ教の根幹をなす最重要教典とされる

       その写本は芸術的で、鮮やかな色を使い装飾文字を多用し、押絵なども加え丁寧にペンで書写さ     れている。 誰にでもできるというものではない。
 トーラの写本(写経)の美しさ〝人々の教典に対する愛と傾倒が見いだされる〟

   さらにもう一つは、「タルムード」「ゲマラ」の文書について・・・トーラの解説書 
       中心部にトーラの言葉、その下や周囲に翻訳や注解が囲み、その周りを後代の人々の注解が囲む
    〝教え〟を中心にしてそれを実際生活にどう具体的に反映させるかという人々の努力の跡がすべて
   の文書に残されている。
       「原理主義的な解釈が永続する傾向が生まれるのではないかと感じた」と感想を述べられている。

地方講師受験のための資料作成委員会

委員 岩崎芳久
〝写 真〟 〝動 画〟
 テキスト『小閑雑感Part4・8』
 テキスト『小閑雑感2008年1月23日・2008年1月11日』

 【ポイント】
   何事をするにも「愛」をもってなさねばその事柄には「魂」がはいらないのである。
      愛を表現する時、人々に感動を与えるのである。
書を書いては、書道となり、花を活けては、華道となり茶を淹れてはは茶道となる。
    動画や写真も同じ事である。
      出来上がった、動画や写真は、被写体となる物を写(撮)す時に、その人が感(観)じたもの、例え      ば大自然の美しさ等が、動画や写真に表現されている。
      感じたままに、そのままを表現をすれば良い。

   インターネットを経由した動画サイトを利用して、迅速に情報が全世界に発信できる時代となり
     つつある。

  【解 説】
 『小閑雑感Part4・8』
  【横浜との縁・芸術は自然の模倣?(1)(2)(3)・生光展はじまる(2)】

 『小閑雑感2008年1月23日・2008年1月11日』
  【東京に雪』『動画サイトをどう使うか】
     近年、動画サイトの成長ぶりは目覚ましく発展をとげている中、視聴者が時間や場所に拘束されず、   好きな時間に家庭や職場で手軽に視聴できる様になってきている。また、国境を越えてこの様なこと    ができる時代となりつつある。
   この媒体を大いに利用して国内はもとより、世界に向かってより迅速に宗教のメッセージを発信     出来る時代である。教団内部の情報伝達もこれを使うべきである。
      【東京に雪』の動画を紹介されている

                                    以上

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日曜大工(廃材利用)について

『日曜大工(廃材利用)』

石田 盛喜代
【ポイント】Murasaki
1.いろいろな日常的な事物に学ぶこと(真理)が多いことに気付くことが大事。
2.いかに多くのものに気付くか。いかに真理を学び取ることが出来るか。日曜大工や工作を行う過程で、物の大切な事、物作りの大変な事が学べ、物そのものや物作りをする人への感謝の心が生まれる。その一つとして『廃材の利活用』が出来る。
3.作業を行う中で、ものの本質を発見することも出来る。自然や物に触れ、自然の神秘や有り難さにも目覚めるチャンスが増える。
4.自分の意外な才能を発見出来、自分の世界が広がる。
5.心に目ある者は見よ、耳ある者は聞け!新羅万象ことごとく神・仏の説法であると気付かせて頂くチャンスが増える。
6.別の観点では、好きなことへの没頭により、自然の自分が甦り、癒される。

≪1≫『小閑雑感Part2』(P.58、255)

≪2≫『小閑雑感Part4』(P.198~200)

以上

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ガーデニング

ガーデニング
Photo_3 石田 盛喜代
【ポイント】
1.神様からのいただきもので、自分を含む人々の心を和ませる。
2.植物の持つ汚れなき美で、私達人間の美を引き出すものとしてガーデニングを行う。
3.植物に接触することにより、植物にも心があり、人間の心が通じることを学ぶ。全てのものは神・仏の生命の表れで、生命において一体であることを実感出来る。
4.全ての生物は褒め言葉で生長することが学べる。体感出来る。

≪1≫『小閑雑感』(2008年2月7日 コンポストの土)
① ガーデニングに利用する肥料は家庭で出る生ゴミで作るコンポストの土を使う。生ゴミも生かして使えてありがたい。
② 台所から出る生ゴミをゴミとして捨てることも少なくなり、環境保全にも貢献することが出来る。

≪2≫『神様からのいただきもの』((P.106~115)
 植物にも心が通じることを、白鳩会総裁谷口恵美子先生は先生のご著書『神さまからのいただきもの』の中で次のようにご教示下さっています。
① 「植物も人の心を感じますから、「可愛いわね」「きれいね」って褒めてあげるとよく育ちますけれど、さんざんいじめてしまうとやっぱり、育たないのです。私たちの家族でも子供でもそうですね。やっぱり「ああ素晴らしいわね」って言って褒めてあげると、素晴らしくなります。」(同書P.111)
② 「新宿御苑…その広場のまん中にとっても大きな木…ユリの木という木……他の木は紅葉が終わりかけていましたが、まだそのユリの木には黄色いような葉っぱが残っていて……「まあ、素晴らしい木ねえ!」と大きな声で言ったのです。……もう一度「素晴らしい木ねえ!」と叫びました。こんな大きな木の下に立って撮せるわけないですから少し遠くへ行こうと歩きはじめました。ところが、急に何か、しゃらしゃらしゃらしゃらしゃらしゃらって音がするのです。何の音かと思いました。広場には何もないし人影もない。風も全然感じられないのです。「あら、何の音かしら」と思って見廻しながら、ユリの木を見上げましたら、その黄金色に輝いた葉っぱが、みんな揺れて手を振っているのです。私はほんとうに感動してしまいましてね。…」(同書P.112~113)
③ 「私は、花や虫や蝶などに、ほんの一言何か声をかけたりするのです。…一昨年でしたが……部屋から庭を見ると、黒揚羽蝶が一羽飛ぶのが見えました。……その揚羽蝶があまりきれいで、ちょうど赤い撫子にとまろうとしていたものですから、「ああ、撮したい」と思いまして、「撮してあげるから、待っててね。待っててね。そこにいてね」と言いながら家へ走って行き、カメラを……ちゃんと待っていて、…撮させてくれるのです。そのようなこともありました。」
以上

| | コメント (0) | トラックバック (0)

絵手紙について

Photo_2 絵手紙
石田 盛喜代
【ポイント】
1.いろいろな日常的な事物に学ぶこと(真理)が多いことに気付くことが大事。
2.絵手紙は心を伝えるゆかしい意思・感情伝達のツールであり、家族間では細やかな愛情表現・伝達方法の一つである。食わず嫌いすることなくチャレンジしてみたら意外なものが見つかるかも。
3.絵手紙も日時計主義の実践の場、実践の一つとして位置付ける。全ての物事を日時計主義で…。これが実践出来れば幸福な人生間違い無し。

≪1≫『小閑雑感』(2007年6月8日 絵封筒に出会う)
① 絵封筒や絵手紙というと、ただ、単に封筒や手紙に絵を書いたものという決めつけをして自分の世界でものを見たり考えたりしがちであるが、『その道』は奥の深いものであり、広かったり幾通りもあるもの。何事にも素直に向き合うことが大切。

≪2≫『小閑雑感』(2007年11月9日『日時計主義とは何か』について)
① 副総裁谷口雅宣先生は次のようにご教示下さっている。「私は「絵を描くこと」自体を日時計主義の実践としてとらえている。さらに言えば、絵だけでなく、俳句も短歌も写真も書も……およそ「表現芸術」と呼ばれているものは皆、それを通して日時計主義を実践するーーと考えている。…中略…自己の“神性表現”の喜びの場として、もっともっと表現芸術を拡大していってもいい……否、拡大していくべきだ、と私は思うのである。」
(『小閑雑感』(2007年11月9日『日時計主義とは何か』について)より)

≪3≫『新しいページ』(はしがき)
① 絵手紙は愛情の表現が出来る。
② 上手下手ではない。反って下手がよいものでもある。
③ 絵手紙に取り組むことにより、自分が生長する。

以上

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ノーミートについて

Photo 料理(ノーミート)
石田 盛喜代
【ポイント】
1.肉食は、自分が手を下さなくても、生命を尊重する生き方を否定する。動物の殺生・ 犠牲の上にある。
2.肉食は内蔵に負担をかけるばかりでなく、健康を妨げる大きな要因、生活習慣病の大きな要因。菜食でエネルギー・栄養補給は充分、寧ろ健康によい影響を与える。
3.食肉生産には大量の穀物を必要とし、人間に回るのを少なくして飢餓の原因になっているばかりでなく、地球温暖化を主とした地球環境破壊の大きな要因となっている。
4.相手先から献げられた食物が肉食であっても、生長の家は宗教的な立場から、懺悔の心を起こし、その犠牲に対して「この供養の食を受ける限りは、この身を無駄に費やすことなく、供養の恩に報いるために尽くさせていただきます。ありがとうございます。」と、あやまり、感謝して食べれば、殺生の業の循環が少なくなって、肉食もまた許されるというように説かれている。
5.ご飯一つの中にも愛を与える心と愛を受ける心とがなければ本当の味わいは生じない。
6.家庭の料理は家族の好きな料理でなければならない。料理を作る者の我で事えてはいけない。『人事所三相応』は全てに当てはまる。

≪1≫『新版心と食物と人相』(P.72~78)
 ① 罪を犯しながら、それを罪だと知らないでいる場合には、その業が循環して病気として形にあらわれ、それを「罪だ、すまなかった」と知ることによってその病気が消える、すなわち業が循環しなくなるということがわかる。だから「肉食」の問題でも、心の世界で「ああ、済まない」という懺悔の念をともなう時に、その殺生を肯定する心の動力が消えて、ふたたび形にあらわれずにすむと言い得る。(P.72~73)
② さらに必要なのは、あやまると同時に、魚でも牛でも我々の食物となるために犠牲になって下さったことに対する感謝の念をともなって、食することがよい。これはその霊魂が冥福を得るということになる。(P.73)
③ そういう訳で、釈尊も、本来、僧たる者は動物を食しないのだけれども、供養された食物である場合には、それを殺生とみないでそこに「供養の愛念」をみて、仏の慈悲というものが食物としてそこに姿を現しているものだとして、拝んでいただくということを許されたのであると思う。生長の家もそういう立場から、父母や、布教に行った相手先から献げられた食物の場合には、たといそれが肉食であっても、懺悔の心を起こし、その犠牲に対して「この供養の食を受ける限りは、この身を無駄に費やすことなく、供養の恩に報いるために尽くさせていただきます。ありがとうございます。」と、あやまり、あやまり感謝して食べれば、殺生の業の循環が少なくなって、肉食もまた許されるというように説かれている。(P.74~75)
④ 動物の肉は植物より蛋白質の質がよいという学説もあるが、それは学説であって、実際とは必ずしも適合しない。肉食をしないで健康を維持するのみならず、健康を増進する人も、禅僧に見られるばかりではない。(P.75~78)
⑤ 植物食の方が平均的に持久力が出る。(P.78)
≪2≫『愛と光との生活』(P.150~163)
① ご飯を美味しく炊くことが家庭明朗化の中心。ご飯を美味しく炊くには、水加減とか火加 減とかも大切であるが、根本的には美味しいご飯を食べさせてあげましょうという愛の心が なければよいご飯は炊けない。(P.150)
② よいご飯が炊けても、それを美味しく感ずるのは、『ああ有り難い』という『光を受ける心』がなければ美味しく感じられない。ご飯一つの中にも愛を与える心と愛を受ける心とがなければ本当の味わいは生じない。(P.150)
③ 料理というものは相手があって、食べる人の心に叶わねばどんな立派な料理でもご馳走とはならない。家庭の料理は家族の好きな料理でなければならない。(P.153~154)

≪3≫『新しいページ』(P.134~139)
① 上記≪2≫の③のよい例が白鳩会副総裁谷口純子先生の著書『新しいページ』
 (P.134~139)にあります。

≪4≫『今こそ自然から学ぼう』(P.197~205)
①肉食忌避のもう一つの理由
 人間の体の健康維持にとって、肉主体の洋食より様々な意味で優れていることは、以前から科学的に立証されている…。(同書P.198~199)
 しかし、エコロジーの視点からも、肉食(特に牛肉)は避けるべきこと…その第一は家畜や家禽(ニワトリ等)、養殖魚の主たる飼料原料が、人間と競合していること。もっと簡単にいうと人間が食べる小麦やトウモロコシを食べている。その量が生半可ではなく、2000年の世界の穀物生産量18億6千万トンのうち6億6千万トン(35.5%)のほとんどが家畜や家禽、養殖魚の飼料となっている。2000年の世界の小麦生産量は約6億トンだが、そのうち1億トン以上が家畜と家禽の飼料に回された。トウモロコシでも同じようなことが言える。動物の体重を1㎏増やすのに必要な飼料穀物は、牛7㎏、豚4㎏、ニワトリ2㎏、魚1.8㎏(いずれも約)である。(同書P.199~200)
 ③地球環境保全に配慮した食糧生産は、できるだけ少ない土地面積で、できるだけ多く生産  できる食糧を作ることである。簡単に言えば“生産効率”のよい食糧が必要である。ところが、“ 四つ足”動物--特に牛--はきわめて低い。アメリカで行われている集約的な肉牛生産では、 放牧地で飼われるのは小牛の間だけで、その後は、肥育のために“囲い”の中に入れられ、牧 草は与えずに、大量の穀物のみならず魚紛などの高淡泊飼料を与える。魚類は世界で獲れる量 の約三分の一は先進国用の家畜の餌になる。(同書P.200~201)
 ④先進国での牛肉需要が増えれば増えるほど、途上国での自国民用の畑地が狭まるか、あるい は畑地造成のために森林伐採が行われる。そして、集中肥育は大量の糞尿の廃棄問題の深刻化、 水質汚染、大気汚染の原因となるばかりでなく、温室効果が二酸化炭素以上の大量のメタンガ スが家畜の腹から発生する。ある試算によると、牛の肥育場から出るメタンガスは年間8千万 トンに上り、地球上の全発生量の二割を占めるという。(同書P.201~202)
 ⑤1987年に、肉食中心のアメリカ人の食生活を批判し、環境と健康に配慮した“新しいアメ リカのための食事”(Diet for a New America)を提唱したジョン・ロビンズ(John Robbins)は、 その著書『エコロジカル・ダイエット』(Diet for a New America)の中でこんな数字を挙げて いる。一人の人間に一年間食糧を供給するのに、肉食人間は3.25エーカー(13000㎡)、乳卵ベ ジタリアンは1.5エーカー(約6000㎡)、完全ベジタリアンは僅か六分の一エーカー(約675㎡) (同書P.202~203)
⑥海外開発評議会(ODC)のレスター・ブラウンの推計によるとアメリカ人が肉の消費量を僅か10%減らすだけで、年間1200万トン以上の穀物を人間の食用に当てることができるという。それだけでも、今年(1987年)地球上で餓死するであろう6000万人の人びとを充分に養うことができる。世界中の牛(牛だけ)が消費する食糧だけでも87億人が必要とするカロリーを供給することができる。『エコロジカル・ダイエット』(Diet for a New America)P.318~319)
……副総裁 谷口雅宣先生のコメント=
我々人類は遺伝子組み換え作物を大量生産して“自然改変”の危険を冒さずとも、牛肉の消費を抑えるだけで、人類の食糧問題の大部分を解決できるかもしれない。(『今こそ自然から学ぼう』P.203)
 私は日本人全員に「ベジタリアンになれ」とは言わない。しかし、聖徳太子の時代には考えられなかった肉食忌避の理由が今、21世紀の人類の前に提示されていることを知り、できるだけ多くの人が欲望に振り回されるのではなく、理性や良心の判断でそれを調節する生き方を選択して欲しいと願っている。それが現代に宗教的良心を生かす一つの道ではないだろうか。(『今こそ自然から学ぼう』P.205)
                                以上

| | コメント (0) | トラックバック (0)