青年会学習会

縦の真理について

Photo 青年会員学習会 6月テーマ「縦の真理」について

テキスト『心でつくる世界』『皆神の子ですばらしい』『新版真理』第10巻 生長の家ウェブサイトよりTOP>生長の家とは>

教え生長の家の基本的な教え生長の家の教えの主な特長は「唯神実相(ゆいしんじっそう)」「唯心所現(ゆいしんしょげん)」「万教帰一(ばんきょうきいつ)」の3つの言葉で表わすことができます。 「唯神実相」とは「唯神実相」の「実相」とは本当にある世界のことであり、唯一にして絶対の神がつくられた世界のことです。実相の世界は神の御徳が充満していて、人間は神の子であり、神と自然と人間とは大調和している世界です。つまり本当に存在するものは唯、神と神の作られた完全円満な世界だけであるという意味で「唯神実相」と呼んでいます。一方、人間の感覚器官で捉える世界を「現象」と呼んでいます。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、人間の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚で濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界です。ですから、世の中には戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えますが、それらはすべて「現象」であって、本当にある世界の「実相」ではないと説いています。

谷口雅宣先生著『心でつくる世界』P19~ 

本当にある世界=実相世界本来の姿=「実相」ほんとうのすがた⇔現象界 ニセモノの姿「仮相」 同著P16~ 縦の真理・ “縦の真理”の「縦」とは、「神と人間」または「創造主と被造物」のような上下関係を表した真理という意味・ 「人間は神の子である」・ 「人間の生命は永遠不滅である」・ 「人間は肉体ではなく、霊である」・ 「人間は神の自己実現である」・ 肉眼で見えるだけの肉体的存在ではなく、その“背後”に完全円満な「神」の名に値するような素晴らしい“本当の人間”がある・ 人間がこの世で生活するための“道具”が肉体・ 人間が生活するための“宇宙服”が肉体

○ 二つの要素 ① 人間は肉体を超えた存在である ② 人間は本来、完全である “肉体を超えた存在”である人間を「本来完全なもの」として見る点に特長がある「人間は神の子である」「人間は本来罪なし」

○ 「人間は本来、完全である」という教義のポイントは「本来」という言葉・ 我々が普通に生活するこの四次元の時空間は「本来」の姿ではない哲学的→「本来的に存在する世界は、人間の感覚的認識を超えている」現にここにあると思っている世界=感覚器官によって捉えられただけの世界=「本当の姿」ではなく“見せかけの姿”が現れているだけ

  「現実世界」「この世界」その中に生きる人間は不完全な存在・本当にある世界、そこに存在する人間⇒神が創造された

 神は万能・完全 神の“作品”である本当の世界、そこに棲む人間も完全円満

谷口清超先生著『皆神の子ですばらしい』・ はしがき 人々は皆「神の子天才」を表現しようとするのである。この人生の一幕が終わったら、次の人生を又送る。「神の子・人間」という本当のいのちの永遠性を自覚したら、「死はナイ」ということになる。

谷口雅春先生著『新版真理』第10巻 P233

「私は神の子である」こと以外を言ってはならない 人間の実相の完全さを観よ。実相は病むことはできない。実相は疲れることはできない。実相は絶望することはない。実相は完全無欠である。実相は決して裏切ることはない。・・・「私は…何々である」と言う場合、その「私は…」とは「神の子である」と云う実相を忘れてはならないのである。 以上

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生長の家の信仰について

合掌、青年会の学習会で、A,Yさんより素晴らしい発表がありました。レジュメをいただきましたので、掲載させていただきます。地方講師の方々のご参考にして下さい。 *尚、写真は、「出雲路の花」です。H、N

Photo 「生長の家の信仰について」より(A.Yさんのレポート)

何を信ずるか
この現象界には目に見えない「心の法則」がある。それは「業の法則」とも呼ばれる「因縁果の法則」である。即ち原因(因)があり、それに縁(助因)が加わって、結果が生ずるという「法則」だ。ことに業は本人の過去世の業や先祖の業も加わるから、現在意識では何が因で何が縁なのか等分からないことが多い。

だから現象世界では、分からないことが一杯である。明日何が起こって次に何が起こるのか分からない。逆にわからないから面白さがあるともいえる。このような現象世界に行きながら何を信ずるかで人生が変わってくる

確実なことは「真理」を正しく自覚し、完全円満なる「絶対神」を信じ、善(神意)なる愛行をなすという“善業”を積みさえすれば善果が得られるということである。

無限次元の世界
とにかく人はどこまでも「明るく生きる」ことが大切である。何故なら、人は皆“神の子”であって全てのものが与えられずみだからだ。しかも「なくなる」ことがないのだからこんな有難いことはない。ところがその実相世界に気づかず、現象世界というこの世の物質的側面ばかりを見ていると、不幸や、病気や、欠乏や、争いが目に付いて、どうしても憂鬱になってしまう。だから「物質世界は本物ではない、影の世界だ」と知らなくてはならない。

物質界は縦・横・厚みの三次元世界であり、実在界、即ち「神の国」を三次元の尺度でとらえて、そのように感覚するだけの「影の世界」なのである。これに時間の尺度を加えて四次元の“時空間”を考えると、時間の次元が一つ加わっただけ、より自由になりゆとりが
できるものだ

四次元世界の例え
あるカメラを買おうと思って店に行ったところ、在庫がないという。しかし問屋に注文すると1週間後には入荷するという場合を仮定する。カメラという三次元物体は今はないが、そこに時間(1週間)を加えて考えると「カメラを手に入れる」という自由を得ることになる。

 このようにして四次元、五次元、六次元と次元を加え続けて、無限次元まで遡ると無限に自由な世界、即ち「神の国」に達する。これを実在界・神の国ということができる。この実在界・神の国からみると、この物質界はその三次元的「影」の世界であるから極めて不完全なのは当然であろう。

不完全さをより少なくするには、「実在界を心で観ること」に熟達するに限るのだ。するといかに物質世界が不完全で限定され、悪条件に満たされているようでも、その条件を克服し、そこをうまくすり抜けて、自由自在な「安全領域」に達することができるのである。

そのままの心
 生長の家信徒行持要目第二項には『そのままの心を大切にすべし。そのままは零なり、一切なり、○なり、円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままをはずしたるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復るとき、一切の不幸は滅す』とある。

この「そのまま」とは、何もしないでポカンとしていることではない。又「無為」とは「自然法爾」である。即ち「真理の実践」といえるであろう。そこにはタバコや酒におぼれる姿もなく、親子喧嘩や夫婦喧嘩もない。だから「無礙」(引っかかりがない)であり、ひとりでに「無限供給」ともなる。

  自然法爾について 
①信仰生活とは無用意の生活ではない。すべてに於いて完全に用意されている生活である。凡そ信仰生活ほど完全に用意されている生活はない。それは心が完全に用意されているだけではなく、物質にも完全に用意されている生活である。物質は心の影であるから心が完全に用意されているとき物質も必要に応じて完全に与えられるのである。
しかしそれは『明日の用意をするな』ということではない。信仰生活とは冬が来てから綿入れを縫えというような生活ではない。秋から冬に要る綿入れを縫うておいても、それは『取り越し苦労』ではない。心が整えば秋から冬に要るものがちゃんと判って、自然法爾(ひとりで)にその要るものを用意したくなるものである。
野の鳥も卵を産む前に巣を作っても小鳥は取り越し苦労をしているのではない。

②よく「備えあれば憂いなし」というが、雨戸の鍵も掛けず、門や玄関の鍵もしめず“そのまま”にして眠るのが自然法爾ではない。
                                     以上

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