生長の家の信仰について
合掌、青年会の学習会で、A,Yさんより素晴らしい発表がありました。レジュメをいただきましたので、掲載させていただきます。地方講師の方々のご参考にして下さい。 *尚、写真は、「出雲路の花」です。H、N
何を信ずるか
この現象界には目に見えない「心の法則」がある。それは「業の法則」とも呼ばれる「因縁果の法則」である。即ち原因(因)があり、それに縁(助因)が加わって、結果が生ずるという「法則」だ。ことに業は本人の過去世の業や先祖の業も加わるから、現在意識では何が因で何が縁なのか等分からないことが多い。
だから現象世界では、分からないことが一杯である。明日何が起こって次に何が起こるのか分からない。逆にわからないから面白さがあるともいえる。このような現象世界に行きながら何を信ずるかで人生が変わってくる
確実なことは「真理」を正しく自覚し、完全円満なる「絶対神」を信じ、善(神意)なる愛行をなすという“善業”を積みさえすれば善果が得られるということである。
無限次元の世界
とにかく人はどこまでも「明るく生きる」ことが大切である。何故なら、人は皆“神の子”であって全てのものが与えられずみだからだ。しかも「なくなる」ことがないのだからこんな有難いことはない。ところがその実相世界に気づかず、現象世界というこの世の物質的側面ばかりを見ていると、不幸や、病気や、欠乏や、争いが目に付いて、どうしても憂鬱になってしまう。だから「物質世界は本物ではない、影の世界だ」と知らなくてはならない。
物質界は縦・横・厚みの三次元世界であり、実在界、即ち「神の国」を三次元の尺度でとらえて、そのように感覚するだけの「影の世界」なのである。これに時間の尺度を加えて四次元の“時空間”を考えると、時間の次元が一つ加わっただけ、より自由になりゆとりが
できるものだ
四次元世界の例え
あるカメラを買おうと思って店に行ったところ、在庫がないという。しかし問屋に注文すると1週間後には入荷するという場合を仮定する。カメラという三次元物体は今はないが、そこに時間(1週間)を加えて考えると「カメラを手に入れる」という自由を得ることになる。
このようにして四次元、五次元、六次元と次元を加え続けて、無限次元まで遡ると無限に自由な世界、即ち「神の国」に達する。これを実在界・神の国ということができる。この実在界・神の国からみると、この物質界はその三次元的「影」の世界であるから極めて不完全なのは当然であろう。
不完全さをより少なくするには、「実在界を心で観ること」に熟達するに限るのだ。するといかに物質世界が不完全で限定され、悪条件に満たされているようでも、その条件を克服し、そこをうまくすり抜けて、自由自在な「安全領域」に達することができるのである。
そのままの心
生長の家信徒行持要目第二項には『そのままの心を大切にすべし。そのままは零なり、一切なり、○なり、円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままをはずしたるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復るとき、一切の不幸は滅す』とある。
この「そのまま」とは、何もしないでポカンとしていることではない。又「無為」とは「自然法爾」である。即ち「真理の実践」といえるであろう。そこにはタバコや酒におぼれる姿もなく、親子喧嘩や夫婦喧嘩もない。だから「無礙」(引っかかりがない)であり、ひとりでに「無限供給」ともなる。
自然法爾について
①信仰生活とは無用意の生活ではない。すべてに於いて完全に用意されている生活である。凡そ信仰生活ほど完全に用意されている生活はない。それは心が完全に用意されているだけではなく、物質にも完全に用意されている生活である。物質は心の影であるから心が完全に用意されているとき物質も必要に応じて完全に与えられるのである。
しかしそれは『明日の用意をするな』ということではない。信仰生活とは冬が来てから綿入れを縫えというような生活ではない。秋から冬に要る綿入れを縫うておいても、それは『取り越し苦労』ではない。心が整えば秋から冬に要るものがちゃんと判って、自然法爾(ひとりで)にその要るものを用意したくなるものである。
野の鳥も卵を産む前に巣を作っても小鳥は取り越し苦労をしているのではない。
②よく「備えあれば憂いなし」というが、雨戸の鍵も掛けず、門や玄関の鍵もしめず“そのまま”にして眠るのが自然法爾ではない。
以上
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